学習の本質は「楽しさ」だ。

Studying is Fun.

 山手学院の塾生であったM君は、東京学芸大学で、保健体育を専修している。「どのように体育教育に取り組むべきか」が、現在の課題だという。
 指導教授が、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を教材として使っているそうで、その考察から得たM 君の結論は、「生徒たちが自発的であること、取り組みが楽しいこと、終了後に充実感があることが、体育指導には必要です」ということだ。
 スポーツの指導において、いまだにスパルタ指導の奨励や体罰の擁護が存在するけれど、スポーツの本質が遊戯であることを認識すれば、叱責や恫喝、罰則や体罰が、完全に誤った行為であることがわかる。ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』Homo Ludens という著書は、日本でも評判になった。
 ホモ・ルーデンスは「あそぶ人」ということで、ホイジンガは、ホモ・サピエンス(智恵のある人)やホモ・ファベル(つくる人)という定義のほかに、人類は、ホモ・ルーデンス(あそぶ人)であると主張した。
 「あそび」は、日常のなかで、純粋な楽しみとして始まる。ただし、日常そのものではないから、時間的にも、空間的にも制限される。そして、複数の人があそぶとき、共通してあそぶための規則が必要になる。「あそび」は、本質的な楽しみとして始まるが、まじめにあそぶことも、真剣にあそぶことも、一生懸命にあそぶことも可能である。だから、「あそび」の対義は「まじめ」ではなく、「あそび」は「まじめ」を包摂 することができる。「あそび」から「儀式」「競技」「スポーツ」への移行のポイントは、ここにある。先に「あそび」があり、「あそび」が昇華されたものが「文化」(儀式や芸術やスポーツなど)なのだ、というのが ホイジンガの考えである。
 東京学芸大学の指導教授は、おそらく、体育やスポーツの根源に戻ることによって、体育指導の在り方を根本的に考え直すことができると意図したのではないだろうか。
 野球では、プレイボール(Playball)という。サッカーでは、プレイ・サッカー(Play soccer)という。
 プレイ(Play)の本質は、あそびだ。あそびは、自発的なものだ。
 そして、みんなであそぶために、時間的制限を設け、空間的制限を設け、規則を設ける。
 みんなが承認した共通の規則があるから、競技が成立し、儀式が成立し、文化が成立する。
 ホイジンガは、文化の中に「あそび」があるのではなく、文化の根源が「あそび」なのだと考える。
 M 君が、体育指導において、自発性や楽しさや充実感を重視する必要があるという結論に至ったのも、M 君が指導教授やホイジンガの考えをじゅうぶんに検討したからだろう。たのもしい若者だ。
 最後に、わたしの観点でいうと、「あそび」から「文化」への昇華の過程には、「学習」が不可欠である。「あそび」⇒「学習」⇒「文化」の流れがある。それこそ、自発的に、楽しく、満足するまで取り組んだ学習 の結果が「文化」であろう。
 M 君がいう「体育教育には、自発性や楽しみや充実感が必要だ」とまったく同様に、どの教科にも、自発性や楽しみや充実感が必要である。学習の本質が「楽しさ」であることを知っておくことは、ホモ・ルー デンス(あそぶ人)の一員として、とても重要なことだろう。
 楽しいと思って取り組むと、学習はどんどん捗るものだ。

学院長 筒井保明